はじまりは、秘境の調査
水力発電に適していながら、秘境と呼ばれた厳しい自然が人々の行く手を阻んできた黒部川。アルミ製造の電力を求めて、大正6(1917)年に初めて電源開発に向けた調査が始まった。調査や工事のため絶壁を削り桟道(水平歩道~日電歩道)がかけられていったが、当時の幅は50センチほどであった。先人たちのまさに命がけの努力が多くの人々の暮らしを支える黒部川水力発電の礎となっている。
日本の建設史に残る、電源開発の物語。
Chapter1
水力発電に適していながら、秘境と呼ばれた厳しい自然が人々の行く手を阻んできた黒部川。アルミ製造の電力を求めて、大正6(1917)年に初めて電源開発に向けた調査が始まった。調査や工事のため絶壁を削り桟道(水平歩道~日電歩道)がかけられていったが、当時の幅は50センチほどであった。先人たちのまさに命がけの努力が多くの人々の暮らしを支える黒部川水力発電の礎となっている。
昭和4(1929)年に全通した日電歩道(提供:関西電力)
Chapter2
昭和11(1936)年、黒部川第三発電所と仙人谷ダムの建設がスタート。仙人谷までは急勾配なため、エレベーターと隧道(トンネル)による輸送を計画。隧道の掘削が進むにつれ温度は不気味に上昇し、高熱地帯に到達。作業員に冷水をかけながら昼夜交代で掘り進めるなど、工事は困難を極めた。さらに、作業員の宿舎を、大雪崩が襲来。4階建ての宿舎が1階を残して吹き飛ばされた。幾多の困難を乗り越え、完成した発電所の出力は当時日本最大を誇った。
建設中の黒部川第三発電所。昭和15(1940)年発電開始(提供:関西電力)
Chapter3
第二次世界大戦後、日本経済の復興が本格化するなか 、電力需要の拡大を受け、昭和31(1956)年、「くろよん(黒部川第四発電所・黒部ダム)」の 建設が始まった。翌年、大量の土砂と地下水が噴き出す地層「破砕帯」に遭遇。この状況は全国に報道され、建設は不可能かと思われたが、我が国の地質学会、土木学会の知識と経験を結集し、関係者の苦闘の末、7ヶ月を要して、破砕帯を突破。昭和38(1963)年6月、7年の歳月と延べ1,000万人もの人手を要し「くろよん」は竣工を迎えた。
4℃の冷水が最大で毎秒660ℓも噴出した破砕帯(提供:関西電力)